●経歴●
早田雄二が撮影した国内の主な女優・俳優

名女優展へ

写真の道へ

1954年、マリリンモンローとジョーディマジオが新婚旅行に日本を訪れたときのスナップ

一九一六(大正五年)、早田雄二(本名 橘 雄二郎)は蒲田に生まれる。
四人兄弟の末子として不自由なく成長し、昭和のはじめころからカメラを持ち歩き、スキーにもよくでかけたモダンな青年だった。

明治学院中等部卒業後、当時グラビア印刷では日本一だった神戸のヘリオプロセス・グラビア印刷会社に入社。
『映画ファン』『映画の友』誌を発行している映画世界社社長である兄 橘 弘一郎の指示であった。
写真複写、修整、製版、印刷など一通りのことに携わったここでの三年間が、早田にとっての下済み時代となった。

 一九三七(昭和十二)年、映画世界社写真部の一名増員にともない、同社へ入社。と同時にカメラマンとしての活動を始める。

以後、戦争で中断するものの、有力な映画雑誌の専属カメラマンにして雑誌発行者の弟という恵まれた環境の中で、存分に映画スターたちの姿を撮りつづけることになる。
自他ともに認めるラッキーボーイであった

 


   

『映画ファン』とともに
出生が決まって映画者のメンバーに送られる早田
(前から3列目、左より3人目、その右に橘弘一郎、淀川長治1943年)

映画世界社に入社したてのころは、『映画ファン』に掲載するため、先輩カメラマンとともに映画撮影所に通ってスターをカメラに収めるのが主な仕事であった。

撮影所通いのこの時期は、戦争が影を落とすまでは良き時代であり、二〇歳そこそこの若さながら、出征するまでの六年間に映画スターたちとの交流を深めていった。

 一九四三年、出征。
 戦車部隊として中国大陸へ。軍隊生活でも、慰問放送の中で田中絹代が、「橘 雄二郎さん、お元気ですか?」とたずねたり、親しかった高峰秀子からサイン入りブロマイドを何枚ももらって貴重なものと交換したりと映画界の恩恵を受けていた。

捕虜生活を経て一九四六年に復員。
その年の六月号から『映画ファン』も復刊。

 戦後直後、街中でジープに乗った進駐軍の兵士らが日常的に見られた時代、早田三〇歳の再出発であった。
生活物資すら不足していた当時、早田は片言の英語を駆使して進駐軍高官の結婚式などの写真を撮り、謝礼として、普通では手に入らないフィルムやライトなど貴重な写真材料を米軍から入手していた。

 復刊した『映画ファン』は娯楽を渇望する人々にささえられ、飛ぶように売れた。

日本映画は戦争による疲弊から、急速に黄金時代へと向っていた。

毎日のように映画会社各社のスターたちや、来日した世界のスターたちの撮影をこなす、カメラマン早田雄二の華やかな時代の幕開けでもあった。

 

   
スタジオ・ポートレート

忘れえぬ慕情で共演したジャンマレーと岸恵子(1956年)

戦前、そもそも映画会社から借りてくる写真だけではあきたらず、撮影所に出向いて雑誌専用に写真を撮って掲載する、ということを初めて導入したのは当時の編集長、兄弘一郎だったが、雑誌の表紙やグラビアを飾るスタジオ・ポートレートの全盛時代を築いたのは早田の功績が大きかった。

 銀座の内外編物ビルのワンフロアにあった映画世界社は、一九五二年末、同じく銀座で帝国ホテルからもほど近い泰明小学校前に建てた巴里ビルに移転、それまで編集部の一角だった写真部はそのビルの3階に独立してスタジオを持つことができた。

このスタジオには一九五九年『映画ファン』が休刊になるまでの間、スターたちが入れかわりたちかわり訪れることになる。

 スタジオを手に入れた早田は、次第に撮影所に出向いての撮影は後進のカメラマンに任せ、スタジオでの撮影技法の研究に磨きをかけていく。

8×10で撮られた精巧なハリウッドのスタジオ写真を参考にライティングを研究、ハリウッド女優に比べて平淡な日本の女性を美しく撮るための独自の方法を探求した。

 また、素晴らしい"瞬間"を捉えるために、あらゆる新たな試みも導入していった。
スタジオにレコードプレーヤーを持ち込んで、BGMを流してリラックスできる雰囲気を作ったり、忙しい女優たちの負担を減らすため、なにもかもすっかり準備を整えて女優を待ち、十五分で撮影してしまう。

 だが、なんと言っても、早田のカメラに収まるときの女優たちの安心感は、日ごろからのつきあいがその背景にあった。人間性がわかている安心感、そして早田がなにより「女優を美しく撮る」ことに集中し、カメラマンとしての衿持をかけていたことを誰もが承知していた。いわば仲間意識のようなものがあったことも大きかったと言えよう。

 一方、この頃早田は自慢のフォードで高峰三枝子、高峰秀子、山本富士子、美空ひばりといった大物スターを自宅に訪ね、くつろいだ姿をフィルムに収めていた。

日本映画も、スターたちも、『映画ファン』も、そしてカメラマン早田も、まさに大輪の花を咲かせようとしていた。

   
早田スタイル

 もちろん友達感覚で楽しく撮っていただけではない。
早田は進取の気性に富んでおり、また本物志向でもあった。

戦後の物がない時代からプリントにはコダックの大判の印画紙を使用したり(米軍から手に入れて)、当時にはめずらしかった望遠レンズを使用した。

 映画世界社主催の映画賞授賞式撮影の時、最前列から壇上を見上げるようにして撮影するのが一般的なカメラマンのポジションだが、早田は会場後ろの照明室に陣取り、自慢の望遠レンズで壇上を狙ったが、もちろんそれでは光量が足りない。今で言うストロボが必要である。

当時はフラッシュ電球という、一回使いきりのものを使用していたが、被写体の近くでたかなければ意味がない。

そこで早田は、日ごろからカメラやレンズを特別使用に仕立てている修理店にとびきり長いコードを特注、それで会場の前に陣取る助手が持つ竿につけたフラッシュ電球と、会場の後ろに構える自分のカメラとをつなぎ、シャッターとシンクロさせた。このフラッシュ電球も、早田がいちはやくとりいれたものだったというが、はるか後ろから身振り手振りで位置を指示し、シャッターを切るたびに大急ぎでフラッシュ電球を取り替えなければならない助手泣かせの撮影方法であった。

しかし、費用や手間にとらわれずに新しい試みに果敢に取り組むこのような贅沢な姿勢こそが、早田の洗練された写真スタイルを作りあげていったと言えよう

     
『映画ファン』時代を終えて

一九五九年、『映画ファン』は休刊となってしまうが、早田は一九五八年の『週刊明星』創刊号から女優を撮ってカバー写真を提供、『週刊サンケイ』『サンデー毎日』などでも表紙の写真を撮影、グラビアを含め多数の撮影をこなした。

 女優によってはカメラマンを指定することなどはめずらしくないが、膨大な数に上る仕事の中で、早田は一度も女優から嫌われたことはなかったという。それほど女優たちの早田に寄せる信頼は大きかった。

 女優との信頼関係の中で成立した仕事に、きものの撮影がある。京都のきものメーカーの春秋カタログ用の撮影であるが、早田は今で言えば広告代理店の役割も果たし、モデルとなる女優たちを集め、着付けのエキスパートを手配し、スケジュールを調整して短期間で撮影を終え、そのうえ女優もきものも、ともに美しい写真をあげていたのである。

クライアントは早田に頼めば全てコーディネイトされ、女優たちにしても早田が撮るのなら安心だったうえに、気に入ったものをプレゼントされてギャラも悪くなかったので喜ばれたという。「誰もが喜んだ」と早田の言うこの撮影は、十年以上つづいた。
このほか、六〇年代後半にはその人選が注目の的だった東宝のカレンダーの撮影も手がけ、女性写真家として文字通り第一線で活躍した。

 一九六六年から六七年にかけては、『週刊プレイボーイ』の表紙撮影を創刊号から手掛けた。ヌードモデルを動物にみたて、縫いぐるみを着せて撮るシリーズだった。
この後、画家の司修と組んでモデルにペイントを施す"エロティック・ユーモア"シリーズをオリジナルで制作。
雑誌やカレンダーとして世に出ることはなかったが、このシリーズに早田の遊びごころを見ることができる。

     
写真家の心意気いつまでも

 一九八〇年代には一線を退いていた早田であるが、一九八九年、ひょんなことから、自身の個展のため来日したオノ・ヨーコを撮影し、再び撮影活動への思いを熱くしていた。この時の縁で一九九一年五月、マイルス・デイビス六五歳の誕生パーティー招待され渡米。

 ニューヨーク、セントラルパーク近くの自宅を撮影のため訪れた時のこと、リビングルームでカメラを向けられたマイルスが「NO」と言って撮影を断り、その場に緊張が走った。
早田とマイルスが火花を散らして向かいあうことしばし、急にマイルスは優しい目になって笑って「OK」を出し、撮影は成功した。被写体に引けをとらない早田の撮影スタイルは健在だった。

 マイルスは四カ月後の同年九月に他界、早田も九五年三月にこの世を去った。
世界のスターを撮りつづけてきた早田の最後の被写体は、最晩年のジャズの帝王、マイルス・デイビスであった。

別冊太陽 名女優より抜粋

     

 


名女優展

〜写真家・早田雄二の撮った"永遠に輝く一瞬"〜